2023年度(第23回 受賞者)

第23回 徳川宗賢賞受賞論文(2023年度)

優秀賞

「矛盾する比喩と社会的葛藤—日本語における「コロナ禍」の概念メタファーの不和—」
第25巻1号, pp.86-101.

小松原哲太
(神戸大学)

優秀賞

「言語使用とアイデンティティ構成—社会言語学と現代社会論の交差—」
第25巻2号, pp.9-24.

嶋田珠巳
(明海大学)
三上剛史
(追手門学院大学)

萌芽賞

「会話における反復と対話者との相互理解—詩的機能とメタ語用の観点から—」
第25巻2号, pp.25-39.

合﨑京子
(日本学術振興会/東京学芸大学(掲載時*))
  • 受賞時の所属: 浜松医科大学

授賞理由

優秀賞

小松原哲太
「矛盾する比喩と社会的葛藤—日本語における「コロナ禍」の概念メタファーの不和—」

第25巻1号, pp.86-101.

 本論は,認知言語学のメタファー研究の知見をもとに,近年のこの分野の実証的定量的な手法を用いることによって,メディアにおける<コロナとの戦い>に関わる人々の声の中の比喩表現を調査した成果である.標準的な概念メタファー理論では,比喩表現の背景にある概念体系を明らかにすることに主眼があったが,本研究では,<コロナとの戦い>の意味焦点が,メディア等で,経済活動の文脈における比喩と,感染対策の文脈における比喩で,それぞれ異なった「戦い」の側面を焦点化していることを実証的に明らかにした.それは,異なる2つの比喩が,起点領域を共有しながらも,異なった意味焦点をもち,概念構造の矛盾を生んでいることから,現実社会における葛藤をもたらしていることを示唆するものである.
 この矛盾は,どちらの<戦い>に参与するかでその起点領域の意味焦点が異なるために,概念構造上の矛盾が顕在化しにくく,社会的にも報道などでの混乱を生むものであったと推察できる.その点で実社会への貢献も大きく,社会言語科学の一般社会への価値をも提示するものとなりうる.言語学の理論的展開としても,認知言語学と社会言語学の接点となる新境地を示唆するものであり,メタファー研究の定量的な研究をさらに切り拓くという方法論的意義も併せて考えると,社会言語科学の今後の発展に大きく寄与するものである.

優秀賞

嶋田珠巳・三上剛史
「言語使用とアイデンティティ構成—社会言語学と現代社会論の交差—」

第25巻2号, pp.9-24.

 本論文は言語使用とアイデンティティについて,社会言語学における関連分野の研究成果に社会学の視点(ポスト近代社会,現代社会論)を取り込むことで導き出される基軸と言語研究への視点を展望したものである.
 ことばとアイデンティティは,社会言語学の創成期の研究から取り上げられてきた重要なテーマである.本論文では,このテーマによる研究の展望として,変異理論と談話分析のアプローチによる研究に着目し,それぞれの研究動向(例えば変異理論研究における「三つの波」や談話研究における社会構築主義的なアイデンティティ論を踏まえた研究の展開等)を手際よくまとめる.その後,ポスト近代,第二の近代とハイ・モダニティなどの社会学の視点とアイデンティティの関係を論じた上で,これらの概念の社会言語学的言語研究への適用可能性ついて,「言語とアイデンティティ」研究をめぐる諸相(複数性・フォーカス効果,言語形式の指標性,アイデンティティの表示と構成の相互性)の文脈において検討し,その有効性を展望している.
 社会言語学は学問領域や理論的枠組みの共創により発展してきた学問領域である一方,特定のアプローチに限定した研究も多い.その中で,本論文は,社会言語学の本質に関わる研究課題に対するさまざまなアプローチの間での相互的な接続可能性を本格的に論じた点で,本学会をさらに推進する原動力にもなる論文であり,本学会の優秀賞にふさわしい論文であると判断した.

萌芽賞

合﨑京子
「会話における反復と対話者との相互理解—詩的機能とメタ語用の観点から—」

第25巻2号, pp.25-39.

 本論文は,自閉スペクトラム症を持つ人(ASD者)の語用の特徴について考察したものである.ASD者の中核的な「症状」の一つとして捉えられることが多い音韻や言語形式の反復という行為を,ASD者の語用・メタ語用として位置付け,ASD当事者と複数の対話者との会話データにおけるASD者の反復行為を詩的機能の観点から分析している.分析及び考察の結果,韻律的なユニットの反復形式を特徴とする詩的機能,そして詩的機能を媒介に,当事者の発話をメッセージそのものとして焦点化するメタ語用的作用が際立ち,発話内容について対話者の理解を促す作用をもたらした可能性が指摘されている.
 成人ASD者が参与した,ほぼ初対面同士の実際の会話場面のデータを収集し,それに対して綿密な分析を行っている.これまで医学的観点から否定的に捉えられる傾向の強かった反復行為について,詩的機能やメタ語用という機能を見出し,ASD者のコミュニケーション研究における新しい視座を提示している点で,本論文は高く評価できるものである.現段階では1人のASD者の(メタ)語用的特徴の一側面に注目した事例研究に留まっているが,ASD者のコミュニケーションの共通性と個別性を考える契機を提供する社会的意義を持つ研究であり,さらに学際的なコミュニケーション研究の可能性を示唆するものである.本学会が目指すウェルフェア・リングイスティックス,トランスディシプナリーな研究の理念からも高く評価でき,今後の研究発展が期待できる,萌芽的なものである.こうした理由により徳川宗賢賞萌芽賞にふさわしい論文であると判断された.

徳川宗賢賞を受賞して

小松原哲太

 このたび思いがけず徳川宗賢賞の栄に浴することとなり心より喜んでおります.本論文の研究に取り組むきっかけとなった特集「『コロナ禍』と社会言語科学」の編者の皆様と,査読の過程で研究を深める多くの論点をご指摘下さった査読者の皆様に御礼を申し上げます.
 私はこれまで認知言語学を専門として研究を進めてまいりましたが,社会の問題にはあまり触れずにきました.それは主に専門知識の不足からですが,自分の研究の意義や解釈が社会現象のなかに絡めとられてしまうようで怖かったということもあるかもしれません.コロナ禍は否応なく研究に影響を与えました.思い切って進行中の社会現象に向き合い,概念メタファーを通じてコロナ禍を省察することで,多くの発見がありました.その一つは,言語研究は社会の役に立つのだという実感です.研究領域の枠にとらわれず,言語現象に映し出された認知と社会の様相を観察することで,実生活に結びついた言語研究を目指し今後も励んでいきたく存じます.

嶋田珠巳・三上剛史

 言語学と社会学を何らかの関心のもとに結ぶとちょうどいい社会言語学ができあがったりしないだろうか.もしもデュルケームがソシュールみたいに言語を見ることができていたら.この論文の種子は,そんな素朴でナイーヴな,学生時代の想像にあったかもしれません.そこから二十余年.拙稿は現地での言語調査のかなわないコロナ禍の文献ノートをもとにした展望論文で,何もできていないという思いも強くあります.それでありながら,授賞理由のお言葉におおいに勇気づけられてもいます.ことばのあり方が多様化し,様々な学術領域においてひろく人間について解明されることの増す現在,言語をめぐる現実の問題を解く基礎は,言語そのものの学問と,言語に様々な角度から関わる複数の学問分野の連携や接続によって築かれるものと考えます.社会言語科学会が開かれた学術交流の場でありつづけることの意味はとても大きい.徳川宗賢賞の受賞を励みに,〈社会〉を含めた言語学(socio-inclusive linguistics)の実践と探究をつづけたいと思います.

合﨑京子

 この度は栄えある賞を頂きまして,誠に光栄に存じます.査読をご担当いただいた先生方,また編集委員の先生方に厚く御礼申し上げます.
 私が自閉スペクトラム症を持つ方々のコミュニケーションの研究を始めて早10年以上になりますが,その分析のほとんどは本研究の調査協力者となって頂きましたCさんの言語使用に着目したものです.その間,常に念頭においていたのは,Cさんが読んで下さったときに,当該コミュニケーションをまなざす視線はさまざまであり,多種多様な捉え方が存在することに気づいていただける端緒となるものにしたいという思いでした.その過程において,未熟な私の分析をご指導くださった社会言語科学会に所属されている先生方をはじめ,多くの素晴らしい方々との出会いなくしては,ここまで研究を継続することはできませんでした.
 まだまだ道半ばではありますが,このように素晴らしい賞をいただけましたことに感謝し,これからも信念をもって研究に取り組む所存でございます.